周辺スポット | 御幸通商店街、御幸通中央商店会、御幸通東商店街振興組合

周辺スポット

コリアタウン周辺のスポット/.史跡名所のご紹介

御幸森天神宮

御幸通商店街の入り口に位置する1600年の歴史ある神社

所在 〒544-0034 大阪府大阪市生野区桃谷3-10-5



今から1600年程前の猪飼野は猪甘津と呼ばれ難波の入江の港であり猪甘部(猪を飼育していた古代の官職。鷹甘部などと同じ)が住まいしていた所でありました。
日本書紀仁徳天皇14年の条に「猪甘津に橋をわたす名付けて小橋という」とあります。当宮の前を流れていた百済川(旧平野川)に架けられた文献上に残る日本最古の橋がこれです。
さて、難波に都を定められた仁徳天皇は鷹狩りの折り、また、当地の東南方(現在の東住吉区あたり)に渡来し住まいする百済の人達の様子をご見聞の為の道すがら度々当地の森にご休憩されその由縁により御幸の森と呼ばれる様になりました。天皇崩御の後、西暦406年、人々はこの森に社を建立し天皇のご神霊を奉祀し御幸の祠とも御幸宮とも称したと伝えられております。

※御幸森天神宮webサイトより抜粋


難波津の歌碑

日本的心尽くしと隣善友好の標

所在 〒544-0034 大阪府大阪市生野区桃谷3-10-5(御幸森天神宮内)

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」
これは大雀命(仁徳天皇)の治世、王仁博士がその繁栄を願って詠んだとされる歌。 碑は、江戸時代に対馬の通訳館が「難波津の歌」をハングルで起こし朝鮮通信使に贈呈したことに由来し、漢字・万葉仮名・ハングルでこの歌が刻まれています。
偶然にすぎませんが、1500年の時を超えて日本人と渡来人がここコリアタウンとその周辺で隣善友好をはかったことの顕彰にその意味があります。

※王仁博士:
伝承上の人物。漢字を日本に伝えたとされる。続日本紀に従うと中国(高句麗に滅ぼされた楽浪郡か)から百済へ渡来した中国系王氏。

つるのはし跡

文献上確認できる日本最古の橋

所在 〒544-0034 大阪府大阪市生野区桃谷3-17-22



日本書紀にある仁徳天皇14年の条に、「冬11月、猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号けて小橋という」と記され、記録に残る日本最古の橋。かつての平野川に架けられ鶴の橋と呼ばれていました。
江戸時代の記録には御公儀によってかけ替えられたという記述が残っており、非常に重要な橋であったことがうかがえます。
名の由来は、その昔、鶴が多く集まっていたからとも、「津の橋」がなまったからとも言われています。
明治7年旧平野川を深く掘削した際に石製かえられ、明治32年長さ12.7メートル、幅1.8メートルに改修されました。
その後、大正末期に鶴橋耕地整理組合の手によって新平野川が開削されると、旧平野川は昭和15年に埋立てられて、廃橋となりました。
現在、鶴の橋があった場所には撤去された石造りの親柱4本とともに、つるのはし跡として史跡公園に小さな橋が設置されています。

御勝山古墳

大坂の陣での徳川秀忠本陣

所在 〒544-0033  大阪府大阪市生野区勝山北3-16


※通常は古墳内には入れません

江戸時代以前は岡山と呼ばれていましたが、大坂の陣おいて将軍徳川秀忠が本陣を敷き、戦勝の後、御勝山と称されるようになりました。
現在は、古墳の中央を勝山通が貫いており、かつてこの場所は大阪府立農学校(府立大学農学部の前身)でもありました。前方部分(南)は大坂の陣で崩されて、現在では「御勝山公園」 となっています。
後円部の東側は桑津街道、鶴橋・平野街道、俊徳街道の交点として、かつては交通の要所であり、御勝山公園にはこれに由来する折口信夫の詩が顕彰碑として残ります。